五島牛とは? 2000年以上前から歴史があった?

五島牛とは、長崎県の離島・五島列島で肥育された黒毛和種を中心とする牛肉のブランド名です。

その歴史は驚くほど古く、五島列島では2000年以上前から牛が飼育されていた記録が残っています。

この記事では、五島牛という名前の由来から、時代を経てブランドとして確立するまでの歩みを、わかりやすく解説します。

五島牛の名前の由来

五島牛という名称は、その名の通り「五島列島で育てられた牛」であることに由来します。

長崎県の西方に浮かぶ五島列島は、福江島・久賀島・奈留島・若松島・中通島・小値賀島・宇久島など大小さまざまな島々からなる離島群です。

この地域で育てられた牛は、地域団体商標として、ごとう農業協同組合(JAごとう)が管理する「五島牛」というブランド名で呼ばれています。

地域の名前がそのままブランド名になっている点は、産地との結びつきの強さを物語っています。

弥生時代から続く五島の牛飼育の歴史

貝塚から見つかった約2200年前の牛骨

五島における牛の歴史を語るうえで欠かせないのが、五島市浜町にある貝塚での発見です。

この貝塚からは、弥生時代、今から約2200年前に埋葬されたとみられる牛の骨が見つかっています。

これは日本国内における家畜牛の歴史の中でも屈指の古さを示す記録とされ、五島列島が古くから牛と深く関わってきた土地であることを物語っています。

江戸時代の「正直牛」小値賀牛

時代が下り江戸時代になると、五島列島の在来種であった「小値賀牛」が「正直牛」という愛称で呼ばれ、農作業を支える役牛として重宝されました。

当時の牛は食用としてではなく、田畑を耕したり荷物を運んだりする働き手として、島の暮らしを支える重要な存在だったのです。

近代化と品種改良の歩み

明治時代:朝鮮牛の導入と大型化

明治14年(1881年)頃、朝鮮からの船が難破したことをきっかけに朝鮮牛が五島に導入され、在来牛の大型化が進んだとされています。

その後、明治45年(1912年)にはデボン種との交配試験も行われましたが、こちらは残念ながら定着には至りませんでした。

昭和初期:鳥取県からの種雄牛導入

昭和13~18年(1938~1943年)にかけては、鳥取県から優良な種雄牛を導入する改良が進められました。

こうした品種改良の積み重ねが、現在の五島牛の血統の土台を築いていったと考えられています。

「五島牛」ブランドが確立するまで

1917年、公式記録に初登場

「五島牛」という名称が公式な記録に初めて登場したのは、大正6年(1917年)のことです。

それまで地域の在来牛として扱われてきた牛が、この頃から「五島牛」という一つのまとまった呼称で認識されるようになっていきました。

役牛から肉用牛へ

長らく農作業を支える役牛として飼育されてきた五島の牛ですが、昭和45年(1970年)頃から、役牛としての利用から肉用牛への転換が本格化します。

機械化が進み農作業における牛の役割が小さくなる一方で、食肉としての価値が見直されるようになり、現在のようなブランド和牛としての五島牛が形作られていきました。

現在では、JAごとうが地域団体商標として権利を持ち、五島列島という限られた地域で生産される希少な和牛として、全国にその名を知られる存在になっています。

五島牛の歴史年表

これまでの歩みを年表形式で整理すると、次のようになります。

時代出来事
弥生時代(約2200年前)五島市浜町の貝塚に牛が埋葬される(国内最古級の記録)
江戸時代在来種「小値賀牛」が「正直牛」と呼ばれ役牛として活躍
1881年頃(明治14年)朝鮮からの牛の導入により大型化が進む
1912年(明治45年)デボン種との交配試験(定着せず)
1917年(大正6年)「五島牛」の名称が公式記録に初登場
1938~1943年(昭和13~18年)鳥取県から優良種雄牛を導入し改良を推進
1970年頃(昭和45年頃)役牛から肉用牛への転換が本格化
現在地域団体商標としてJAごとうが管理、希少なブランド和牛として定着

こうして振り返ると、五島牛は一朝一夕に生まれたブランドではなく、

2000年以上にわたる牛と島の暮らしの積み重ねの上に成り立っていることがよくわかります。

役牛として島の農業を支えた時代があったからこそ、現在の食用ブランド牛としての五島牛があるとも言えるでしょう。

まとめ

五島牛のルーツは、弥生時代の貝塚に眠る牛骨にまでさかのぼります。

江戸時代の役牛「正直牛」、明治・昭和の品種改良を経て、1970年頃からは肉用牛として本格的に歩み始め、現在の希少なブランド和牛としての地位を築いてきました。

2000年以上という長い歴史の積み重ねこそが、五島牛の価値を支える大きな魅力の一つと言えるでしょう。